ハインリッヒ・シュッツの生涯 (正木光江)

ハインリッヒ・シュッツ (1585-1672)
ハインリッヒ・シュッツ Schütz, Heinrich (ラテン語名は Sagittarius,Henricus) 17世紀ドイツの最も偉大な作曲家。ドイツ人として初めて国際的な名声を得た。ザクセン選帝侯国ドレスデン宮廷楽長。1585年10月8日西部テューリンゲン地方の小邑ケストリッツ(現バート・ケストリッツ)において生まれ 1672年11月6日ドレスデンにて没す。

 (I) 青年期まで (1585-1619)
1585-90 ケストリッツ
1590-99 ヴァイセンフェルス
1599-1609 カッセルとマールブルク
1609-12/13 ヴェネツィア留学
1613-19 カッセルからドレスデンへ

ボヘミアに端を発し、エルスター山脈を越えてやがてエルベ河支流となるヴァイセ・エルスター川の流れに沿ってひろがる、領主ハインリッヒ・ポストゥームス・ロイス侯の居城オースターシュタイン城があったゲーラの町に、1540年頃ハインリッヒ・シュッツの父方の祖父アルブレヒト・シュッツが移り住んで以来、この地方がシュッツ一族発祥の地となった。ロイス領は神聖ローマ帝国ドイツ領邦のひとつであったが、宗教改革以後ロイス領内では、新任牧師はヴィッテンベルクで任職しなければならず、新教浸透の度合いは他のいずれの地域よりも勝っていたという。この地域では誰もが高い教養を身に就けることが可能であり、また誰もが礼拝音楽に参加できる環境がすでに醸成されていた。

アルブレヒトの息子クリストフ・シュッツはゲーラの市長ヨハン・ビーガーの娘オイフロジーネとの再婚で八人の子供を授かるが、その三男が作曲家ハインリッヒ・シュッツである。ヨハン・ビーガーの孫として、のちに「ドイツ・リートの父」と仰がれるハインリッヒ・アルベルト Heinrich Albert(1604-1651)は、ハインリッヒとは母方の従弟同士の間柄であり、若い頃の政治活動から音楽へ軸足を移して、1634年以降は音楽家としてハインリッヒとの関わりを深めた。父クリストフ・シュッツはゲーラ市の書記を務めていたが、1578年頃ゲーラから1マイルほど北西にある、やはりエルスター川沿いの町ケストリッツに赴いて、ハインリッヒの生家となった旅館<金鶴館>の管理人となり、さらに1591年ハインリッヒが6歳の時家族と共にザクセンのヴァイセンフェルスに移り住み、旅館<射手(シュッツ)館>の主人となって後には市長にもなった。ハインリッヒは豊かな家庭で幼少の時代を過ごし、両親からは将来法律家への道へすすむことを嘱望されていた。

ところが、西の隣国ヘッセンのモーリッツ辺境伯(在位1592-1627)がたまたま射手館に宿泊し、類い稀なハインリッヒの美声を聞き知って、1599年8月、14歳の少年をヘッセンの都カッセル宮廷礼拝堂の少年聖歌隊員として採用した。「学問伯」と呼ばれたモーリッツ方伯は、碩学の誉れが高く、人文主義的教養の持ち主であり、自ら作曲を嗜む程音楽をこよなく愛していた。カッセルに最初の常設宮廷劇場を建てた君主でもある。ヘッセンは宗教改革以後ドイツの中でもザクセンに次いでいち早くプロテスタントに改宗した領邦でもあった。とは言え、方伯自身は即位後自らの教義をルター主義からカルヴァン主義へ転向し、領内においてもむしろその普及に努めていたので、この点では、ルター正統派主義を固執し、三十年戦争を乗り切ったシュッツの後の君主、シュッツと同年生まれのザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世 Johann Georg I (1585-1656, 在位1611-1656)とは同じプロテスタントでも宗派が異なっていた。

 カッセルにおける音楽の師は宮廷楽長のゲオルク・オットーで、ルターの音楽上の協力者ヨハン・ヴァルターJohann・Walter(1496-1570)の流れを引く音楽家であった。シュッツは彼の許で初期の習作である《いかにして喜びに生き》SWV474を書いている。そのかたわら、モーリッツ方伯が開いたコレギウム・マウリツィアーヌムと呼ばれるギムナージウムの給費生となって、とりわけ諸外国語の上達に励んだ。やがて変声期を迎え、カッセルの南に位置するラーン川沿いのマールブルク大学に移って法律の勉学に勤しむことになる。

しかしそれも束の間、翌1609年にモーリッツ方伯は奨学金を与えてヴェネツィアの高名なオルガニストで作曲家のジョヴァンニ・ガブリエリGiovanni・Gabrieli(1553頃-1612)の許へ1年間の留学を命じたのである。当時のヴェネツィアは、ヨーロッパ音楽の歴史がルネサンスからバロックへと変動を成し遂げる只中にあって、複合唱のモテト、マドリガーレ、器楽、の各分野でその変革に偉大な役割を果たしていた。活動の中核となった聖マルコ大聖堂は本堂の両翼に離された2つの聖歌隊席と2台のオルガンを持つ聖十字型の特異な構造によって知られ、この建築様式を利用してヴェネツィア楽派と呼ばれる大聖堂に関与した音楽家達は「分割合唱」の技法を発展させる。この技法で多くの作品を書いたウィラールトAdrian Willaert(楽長在職1527-1562)を経て主席オルガニストG.ガブリエリの複合唱様式のモテトによってヴェネツィア楽派の活動は頂点に達していた。シュッツは修業に打ち込みガブリエリの課題曲《マドリガーレ集 作品1》(SWV1-19)を1611年ヴェネツィアで出版してモーリッツ侯に献呈し恩顧に報いた。終曲第19曲 <広大な海原に> は、8声部の二重合唱曲で、敬愛するモーリッツ伯爵への献呈曲。イタリア語の歌詞もシュッツの作詩である。ガブリエリの計らいで方伯からの奨学金は1年延期されたが、1612年8月ガブリエリは病いで世を去り、彼は臨終の床で司祭に託して最愛のドイツからの弟子に自分の指に嵌めていた指輪を贈ったと伝えられている。傷心のシュッツはその後両親の援助を受けて、足掛け4年の留学を終え、1613年5月頃にカッセルに帰国した。モーリッツ方伯は、シュッツに宮廷礼拝堂の副楽長的立場と第2オルガニストの役職を与え、いずれ楽長に就かせる心算であった。

しかし、またしてもそうはい行かなかった。1614年9月、ザクセン選帝侯から、次男アウグストの洗礼祝典の音楽を、当時ザクセン宮廷楽長を兼務していた、ヴォルフエンビュッテルの楽長 M.プレトリウス Michael Prätorius(1571?-1621)と共に準備してもらいたいとの依頼を受けて、シュッツはドレスデンの宮廷に初めて滞在することになった。M. プレトリウスは宗教音楽を、シュッツは食卓音楽を担当するよう命じられた。洗礼の儀式は盛大に挙行されたが、その後も選帝侯はシュッツの借用を強請するようになり、モーリッツ方伯は止むを得ずシュッツをザクセン侯に差し向けねばならなかった。

1617年2月シュッツは、籍は未だカッセルに置いたまま、ザクセン選帝侯から名目上のザクセン選帝侯宮廷楽長就任を命じられ、音楽家として踏み出すことを心に決めた。以後、55年間一時中断はあったが、生涯この地位に留まって、時あたかも30年宗教戦争(1618-1648)の苦難に満ちた時代に、「当代の我々近代音楽の父」、「ドイツにおける最良の作曲家」と讃えられながら活躍を続けた。1617年の夏に催されたドイツ皇帝マティアスをドレスデンの宮廷に迎えての大祝宴と、秋に行われた宗教改革100年祭祈念の祝典は、新しい楽長の名声を世に知らしめる絶好の機会となった。シュッツは、2年後に公表する《ダビデの詩篇曲集》収載の4曲を加え、ヴェネツィアで学んだ多彩でダイナミックな複合唱を用いて、トランペットやドラムをフルに使った華麗な音響で記念祭を祝福した。


(II) ザクセン選帝侯宮廷楽長 ① (1619-33)
1619-33 ザクセン選帝侯宮廷楽長
1618年5月三十年戦争勃発
1628-29 再度ヴェネツィアへ

ドレスデンで宗教改革100周年が盛大に祝われた翌年の1618年5月、隣国のボヘミアで改革派教会区内の建築禁止に抗議した反改革派のブラハ市民によって、カトリック系の役人3名が大法官邸の窓から投げ落とされる事件が起こり、これが三十年戦争のきっかけとなる。しかしこの時にはザクセンは未だ参戦していなかった。1619年6月1日シュッツは選帝侯の書記官の娘マグダレーナ・ヴイルデックと結婚式を挙げ、この記念すべき日付をもってイタリア留学の成果を世に問うべく複合唱様式の《ダビデの詩篇曲集 作品2》(SWV22-47)を出版し、ザクセン選帝侯に献呈して、このとき正式にザクセン選帝侯宮廷礼拝堂楽長に就任した。続いてドイツ・オラトリオの最初の作品とされる《イエス・キリストご復活の物語 作品3》(SWV50,1623)、ラテン語の歌詞による4声部の表現力の強いモテト集《カンツィオネス・サクレ作品4》(SWV53-93,1625)と矢継ぎ早に初期の傑作を発表するが、1625年9月6日、最愛の妻マグダレーナが24歳の若さで2人の幼い娘を残して世を去った。シュッツはすぐさま深い嘆きを通奏低音付のテノール独唱曲《アンピオンと共にわたしのオルガンは・・・》(SWV501)に託した。結婚後6年目で妻の死に遭遇し、この悲しみから生まれたのが同年のドイツ語4声部の讃美歌集《コルネリウス・ベッカーによるダビデの詩篇曲集 作品5 》の初版(SWV97a-256a 1628出版)である。この曲集は1661年にシュッツによって全面的に改訂増補されて、その後も長くドレスデンの宮廷では18世紀まで使用されていた。

1627年4月13日ゲオルク1世の長女とヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク2世との婚礼を祝って、トルガウのハルテンフェルス城で《ダフネ》が上演された。台本はフィレンツェのリヌッチーニがペーリのために30年以上前に書いた《ダフネ》を、17世紀のドイツの代表的詩人マルティン・オーピッツが翻案独訳したものである。印刷された台本のみが現存し、音楽は完全に失われているために、現在もなおその実体は全く不明である。このときシュッツが書いた音楽については、記録には「ダフネを主人公とする牧歌的な悲喜劇を宮廷の楽師たちが音楽を付けて上演した」とあるのみで、たとえミュンヘンやウィーンよりも時期的には早かったとしても、到底「最初のドイツオペラ」と銘打つことはできないものであった。またそう自覚していたからこそ、シュッツは無理を押してでも再度ヴェネツィアへ出かけたのであろう。この年の秋、シュッツはミュールハウゼンで開かれた選帝侯会議に出席するゲオルク1世に18名の団員を伴って同行し、約1か月滞在した。 会議のためのコンチェルト《主よ、われらに平安を与え給え》(SWV465)は分割合唱曲で構成され、第1合唱はアンテイフォナを、同時に歌う第2合唱はドイツ皇帝フェルディナンド2世と選帝侯たちを讃えて、万歳を唱和する趣向に依っている。

20年代末頃から三十年戦争の脅威がザクセンの宮廷にも及び始め、宮廷の財政事情に困り果てたシュッツは、再度イタリアを訪れる許可を願い出、8月に出発、11月にヴェネツィアに到着した。今回はトスカーナ大公妃の推薦状を申し出てヴェネツィア以外へも旅行した。当然フィレンツェを訪れたと思われるが、記録はない。1613年以来聖マルコ大聖堂の楽長職にあった不世出の天才モンテヴェルディClaudio・Monteverdi(1567-1643)と直接相いまみえた確証はないが、強烈な印象を受けたことを、ヴェネツィアを去る直前に出版したラテン語のコンチェルト集《シンフォニエ・サクレ第1部 作品6》(SWV257-276,1629)の序文で彼自ら述べている。「この曲集はイタリアの作曲家達が大衆を楽しませるために様々試みた新しい工夫との出会いから生まれ」と述べ、「イタリア旅行の間ドイツでは未だ全く知られていない、芝居の台詞を朗誦様式に移し替えて上演している」と回想している。かつてトルガウで上演した《ダフネ》には正式のレチタティーヴォを用いなかったことが、これではっきりと推測出来るのである。この第2次イタリア旅行で、1624年から留学していた弟子のテオルボ奏者キッテルやマントヴァ出身のヴァイオリン奏者カステッリと共に、ドレスデンの楽団のために楽器を買い求め、弦楽器の名器の産地クレモナ(モンテヴェルディの生地)まで足を延ばしたことも証明されている。 1630年には選帝侯の次女の婚礼のための音楽と、同年6月5-7日のアウグスフルク信仰告白100年祭の音楽を作曲、1631年1月に前年亡くなった親友の、ライプツィヒ・トーマス教会のカントルJ.H.シャイン Johann Hermann Schein (1586-1630)を追悼するモテト<それは確かなまこと>(SWV277)を出版。このモテトは後に改訂して《宗教合唱曲集》に収録された。10月初めに実父と義父を失い、この年の秋、ザクセンは初めて三十年戦争に参戦した。9月にはスウェーデンと同盟を結び加勢したために、ドレスデン宮廷楽団改善の望みは完全に断たれてしまったのである。

(III) ザクセン選帝侯宮廷楽長 ② (1633-1656)
1634/35コペンハーゲン宮廷楽長
1642-45 再びコヘンハーゲン宮廷および北方ドイツへ
1648年10月三十年戦争終焉

1633年2月、無類の音楽好きであったデンマーク王子クリスチャンが、自分とゲオルク1世の末娘の婚礼祝宴の音楽担当者に、シュッツを是非にと所望していることを知り、シュッツはゲオルク1世の許しが出ないままハンブルクに赴き、弟子のM.ヴェックマンの指導をヤーコプ・プレトリウスに頼んだ後コペンハーゲンに到着、国王クリスチャン4世からデンマーク宮廷楽長に任命された。4年前に皇帝軍に敗れて三十年戦争から手を引いたデンマークは、以前の音楽が盛んな平和な国に戻っていた。当時ケーニヒスペルク大聖堂のオルガニストの地位にあったシュッツの従弟の H.アルベルトもこの婚礼行事で活躍し、シュッツを助けた。1634年10月5日から18日までの祝典の間、バレエ1作、音楽と踊りの付いた喜劇2作などが上演されている。婚礼行列のためのカンツォネッタ(SWV278)以外はこの時の音楽は全く残っていない。シュッツは1635年5月迄デンマークに留まったが、滞在中の2月に実母の訃報を受けている。デンマークの宮廷に滞在中《シンフォニエ・サクレ 第2部》のために作曲していた手稿譜を、シュッツはクリスチャン王子に手渡して帰国した。王子は1647年にドレスデンの近郊で病いのために亡くなり、シュッツは戦争のために出版が遅れた第2部を修正補填して出版し亡き王子に献呈した。この第2部の第16曲 <神よ、立ち上がれ> で、シュッツはモンテヴェルディの《音楽の戯れ》(1632)から2作品 <西風が帰り> と <ダイヤモンドの忠節で心を固め> とを選んで巧みにパロディー化している。また、ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム5世からカッセル宮廷楽団のための最新の自作集を要望され、彼はドレスデンに戻ると、昔の恩義に報いるために即座に新作品集をカッセルへ送った。

同年12月3日ゲーラの領主ハインリッヒ・ポストゥーム・ロイス侯が亡くなった。シュッツは1636年2月4日の埋葬式のために、《葬送の音楽 作品》(SWV279-81)を作曲し依頼主の夫人と息子に送った。ロイス侯は自分の葬儀に希望する曲の指示を式次第にそって詳細に残していた。葬送のための曲は3部から構成され、第1部は牧師の説教の前に演奏されるドイツ埋葬ミサの形式によるコンチェルトであり、第2部はロイス侯が選んだ詩篇第73章25-26節が追悼説教の直後に8声部の2重合唱で歌われる。第3部は、ロイス侯が遺骸の埋葬用に選んだシメオンの歌がそれぞれ独自の歌詞で2つの合唱によって同時に歌われる。第1合唱は5声でシメオンの言葉「主よ、今こそあなたはこのしもべを」を朗唱し、第2合唱はヨハネ黙示録13-14とソロモンの知恵3章1節をソプラノ2とバリトンもしくはハイ・バスで歌う。葬送の音楽は本来機会音楽であり、1回限りのもので再度用いられることはなかったにも拘わらず、シュッツは敬愛してやまない故郷の領主のために最大の努力を傾けて劇的な大曲として完成し、翌1636年献辞と59行に及ぶ長大な追悼詩および演奏のための助言をタイトルページに掲げて、作品7として出版した。

再度のイタリア旅行の前後の時期、つまり40代の始めから半ばにかけて、シュッツは近親者や友人の死に立て続けに遭遇している。1625年の夏に義姉が亡くなり、その直後に若い妻を失った。1630年には心をゆるした友シャインが夭折し、翌年8月には父が、その1一ケ月後に義父が、4年後には母が、さらに長女アンナ・ユスティーナさえもが彼に先立 って世を去ってしまった。これに追い打ちをかけるかのように宮廷楽団の維持も最早これまでとなった。この苦闘の中で生まれた2集の《小教会コンチェルト集 1,2部作品8,9 》1636/39、《イエス・キリストの十字架上の7つの御言葉》1645-1655頃、《シンフォニエ・サクレ第2集 作品10》(1647) は不滅の輝きを放っている。この時期の作品群に小編成の作品が集中しているのは、宮廷楽団員が戦争のために動員されて、10名を割ってしまったのっぴきならない事情があった。その一方で、これらはまた、モンテヴェルディ、A.グランディ、ランディら、イタリアの作曲家達の強い影響を受けた作品でもある。

作品番号を持たない重要な作品は、《われらの愛する救い主イエス・キリストが聖なる十字架上で述べられた7つの御言葉》(SWV478)である。イエスの御言葉と福音記者の語りは、マルコ、ルカ、マタイ、ヨハネの4福音書から採られている。全曲の前後にはSAT1,2Bの5声部の合唱が置かれ、導入合唱後と終結合唱の前には同形5声部の器楽シンフォニアが置かれて二重の枠取りをなしている。中央部の福音記者の語りはTIの他に、場面によってSAT1,2 Bの各ソロと4重唱で、イエスの十字架の両側に磔にされた罪人の言葉は通奏低音の伴奏のみで歌われるが、“イエスの7つの御言葉 ”はTⅡの朗唱が弦楽3重奏によって伴奏される。簡潔な特異な編成を持ち、30分足らずの作品ではあるが、受難オラトリオの特殊な例である。(この作品は1965年3月28日にわが国で初演され全国放送された。これを記念して国際ハインリッヒ・シュッツ協会日本支部が設立されたのである。)

1648年、ヴェストファレンの和議が成立し、三十年戦争がようやく終焉に向かった年、シュッツは彼の宗教合唱曲集の集大成とも言うべき5-7声部のモテト29曲を含む《宗教合唱曲集 作品11》(SWV369-397)を出版し、心の友であったシャインの想い出のために、ライプツィヒ市参事会と、既にすぐれた聖歌隊として名を馳せていた聖トーマス教会聖歌隊に献上した。この作品の序文には新・旧両スタイルに関してのシュッツの考えが記されている。彼は徒(いたずら)に時流に阿(おもね)るのではなく、フランドル楽派の長い伝統が築き上げた多声部のモテト書法の中にイタリアが齎した新しいモノディー様式を取り込んで表現の可能性を探りあてるという手法を、後進の作曲家達に薦めている。一部の作品は声と楽器を重複してもよく、オルガンで伴奏してもよい。序文の最後には、愛弟子ベルンハルト Christoph Bernhard (1628-1692)の『大作曲法教程』(1651刊)の刊行予告も記している。

1648年10月、三十年戦争は終結したが、ザクセンが平和の祝典を挙行したのはその2年後、スウェーデンの占領軍が引き揚げて世情が落ち着きを取り戻した1650年7月22日であった。この時演奏された曲は、《ダビデ詩篇曲集》の第24曲、詩篇136<主に感謝せよ、主は恵み深く>(SWV45)と《シンフォニエ・サクレ 第3集》の終曲<さあ、すべてを神に感謝しよう>(SWV418)であ る。この第3節「常に我等に平安を与えたもう神に」の箇所の「平安 Friede」の語は、実に24回繰り変えされ、人々の喜びの声をここぞとばかりに強調している。しかしシュッツが率いる選帝侯の楽団は、これらの曲を演奏する水準にまで未だ回復していなかった。イタリア人ボンテンピが指揮する、継承者ゲオルク2世の楽団の支持を得て祝典の奏楽は現実のものとなったのである。1651年従弟のアルベルトがケーニヒスベルクで亡くなった。彼は生涯に全8巻に及ぶ《アリア集》と著作、作品を後世に遺した。

(IV) ザクセン選帝侯宮廷楽長 ③ (1656-72)
晩年 ヴァイセンフェルスとドレスデン
1672年11月6日 ハインリッヒ・シュッツ没

選帝侯楽団の疲弊ぶりは、その後もゲオルク1世が他界して2つの楽団が統合されるまで続き、通常の安息日の礼拝でさえ、まともな演奏が出来ない状態であった。シュッツはこの間、選帝侯に自分の退任と楽団員の処遇について度重なる請願状を提出している。1651年には略述の自伝を添えているが、この自伝は現在でも尚シュッツの生涯の基本的な資料の役目を果たしている。長い間の確執があったとは言え、それは異常に長期化した宗教戦争のためでもあり、50年以上楽長として仕えたシュッツを最後まで手放さなかった主君である。その恩義に報いるために選帝侯の埋葬に際して彼は、かつて故郷の領主ロイス公のために書いた《音楽による葬送》と同様に、《主は今こそあなたの僕(しもべ)を平安へと旅立たせて下さいます(シメオンの歌)》(SWV432-433,1657刊)を二通り作曲して亡き主君に捧げた。

1655年1月11日、ただ一人残っていた娘のオイフロジーネが亡くなった。シュッツは冬の間滞在していたヴァイセンフェルスから娘の臨終の床を見舞ったと追悼の辞に記されている。ベルンハルト、ボンテンピ、ホーフコンツ、ツィーグラーら多数の関係者から50通の哀悼詩が寄せられ、印刷された。

ドレスデンで1657年に出版された《12の教会聖歌集 作品13》(SWV420-31)はシュッツが自由な時間に書きためていた小曲を集めて、弟子のキッテルJohann Christian Kittel(1732-1809)が師の承諾を得て世に出した珍しい作品集である。キッテル自身の作品も付録として1曲添えられている。全12曲は全て4声部の合唱曲で、最初の9曲は主要礼拝と晩課の音楽と連梼であり、残る3曲はラテン語学校の教育および一般会衆の教化のための音楽である。最初の6曲、キリエ・トロープス、グローリア・トロープス、ニケア信教、聖餐導入の言葉、聖体拝領唱、そして感謝の言葉は、17世紀ドレスデン宮廷礼拝の慣行に即してシュッツか後世に残した唯一の纏まりのあるドイツ・ミサと考えられる。消失したミサ通常文の付曲についてはモーザーのシュッツ伝に「消失リスト」がある。

1657年に亡父と自分の2つの楽団を統合したヨハン・ゲオルク2世は、楽長にボンテンピを副楽長に新たに宮廷に入ったアルブリーチを任命した。シュッツは上席楽長の肩書で時折ドレスデンへ出向き、主な宮廷の行事のために新作は書いたが、楽団を指揮することはなかった。ドレスデンの家を売却し、ヴァイセンフエルスに移って《ベッカー詩篇曲集》 の改訂増補版の仕事に殆どの時間を当てた。ゲオルク2世は城館教会の修復が完成すると教会規定を改定し、詩篇曲をザクセン侯国に広く普及させるために、改訂版の作成をシュッツに命じたのである。曲数の増えた改訂版(SWV92-258)は1661年に出版された。不在楽長を務めていたヴォルフェンビュッテルのアウグスト公の、同年2月10日の誕生日のお祝いに、シュッツはこの新しい詩篇曲集を2部送った。同じく不在楽長を務めていたツァイツへも改訂版を送り、ここでは以後75年間主日の礼拝に使用された。ゲオルク1世の息子 達が統治していたヴァイセンフェルスやクレンブルクにおいても、この改訂詩篇曲はその後100年間使用された。1672年ゲオルク2世は、孫の養育係としてベルンハルトをハンブルクからドレスデンへ呼び戻した。1676年、ベルンハルトは第1部にシュッツの《ベッカー詩篇曲集》の改訂版を通奏低音と旋律声部に編曲した曲集を、第2部には《ドレスデン教会歌集》(1593)の増補版を収録した、新しい教会歌集を出版した。このようにして、シュッツの作品の中では、このベッカー詩篇曲集改訂版が、最も広く、長く使用され続けたのである。 1664年1月10日シュッツはアウグスト公に宛てて、往時すでに全ヨーロッパの中でも屈指の規模と知名度を誇っていた、アウグスト公が創立したヴォルフェンビュッテルの図書館に、自分の作品を送ったと書簡で知らせた。数か月前のアウグスト公の要望に応えたもので、シュッツはこの立派な信頼のおける図書館に、作品1.4.6.8-13と出来の良い数曲の手稿譜を委託した。最大規模の作品2《ダビデの詩篇曲集》、作品3の《復活オラトリオ》、作品5の《ベッカー詩篇曲集》の新しい改訂版、ゲーラの領主の遺言で作曲された作品7《音楽による葬送》、そして晩年の作品番号を持たない大規模な曲は除かれた。シュッツは1655年に不在楽長の地位を取得していたが、アウグスト公夫人のゾフィー・エリーザベトはシュッツ作曲の弟子となった。ヴォルフェンビュッテルの宮廷との良好な関係は1666年アウグスト公が没する迄続いた。後世にとって何よりも有り難いことは、たとえ全てではないとしても、シュッツが自ら目を通して納得した作品をまとめて、最良の条件の整った図書館に委託したことである。

ドレスデンの宮廷日誌は1660年の降誕祭の晩祷に、シュッツのレチタティーヴオ様式による音楽が演奏されたことを伝えている。この音楽が名作《イエス・キリストの降誕物語》であることは間違いない。聖書の言葉は物語る部分と、直接話法の部分に分けられる。物語る部分は通奏低音の伴奏を持つレチタティーヴォ様式で、直接話法は「間奏(インテルメディウム)」とこの作品では呼ばれている。1623年刊の《復活オラトリオ》でも分かるように、たとえ通奏低音付であっても、従来福音史家の語りは、グレゴリオ聖歌の一定のパターンで歌われ ていたが、作曲者は強く意識してイタリアの新しい「レチタティーヴォ様式 stile recitativo」を取り入れた。これはドイツでは最初の試みであった。導入部と終結部以外の歌詞はすべてルター訳の新約聖書のルカ、マタイ福音書のキリスト生誕に関する記述によっている。導入と終結の枠の中で、9曲の福音史家のレチタティーヴォと8曲の「間奏」が交替する整然とした構成を持つ。物語の登場人物にふさわしい声域、声部数、拍子、楽器・・・が選ばれ、間奏曲は進んでゆく。誰にでも分かりやすく親しみやすく印象深いドイツならではのクリスマスの名曲である。1664年には、福音記者用の楽譜のみが印刷された。シュッツは序文で、「間奏曲の楽譜は楽器の揃った楽団でなければ望ましい効果が出せないので、出版しないことにした。必要とあれば適当な報酬で写譜を送る」と説明している。事実「間奏」に付された音楽は、ドレスデンとライプツィヒで手書きによるパート譜の形で販売に供された。「間奏」の楽譜は20世紀の初頭、音楽学者のシェリングによって、スウェーデンのウプサラ大学図書館で発見され、この名作の全体像が、初めて明らかになった。残されていた資料に幾多の問題を抱えていた通称《クリスマス・オラトリオ》は、2017年、60年ぶりに国際シュッツ協会編纂の新シュッツ全集第1巻(1650)の新訂版として、ベッティーナ・ヴァルヴィヒ(マグダレンカレッジ,オックスフォード)によって刊行された。

新選帝侯ヨハン・ゲオルク2世は1581 年以来久しぶりに改訂した「ドレスデン城館規定」で、受難週にこれまでのマタイとヨハネの2曲に加えて、3曲受難曲を演奏することを決定し、1666年の受難週に宮廷礼拝堂では初めて《聖マタイ受難曲》(SWV479,1666)がご受難の主日4月1日に、《聖ルカ受難曲》(SWV480,1662?)枝の主日4月8日に、《聖ヨハネ受難曲》(SWV481,1665頃)が聖金曜日の4月13日に集中して演奏された。復活祭には、シュッツの《復活祭オラトリオ 作品3》が例年演奏されていた。《聖ヨハネ》の第1稿SWV481aは、既に1662-65年頃初演された可能性がある。シュッツは各受難曲を3人の福音史家の個性に応じて《ルカ》をリディア旋法、《ヨハネ》をフリギア旋法、《マタイ》をト音上のドリア旋法として描き別けている。J.ヴァルターの伝統に従った応唱的受難曲の形をとるが、イエスやピラトなど個人の役には無伴奏の朗唱風旋律を用い、群衆や使徒たちの言葉はポリフォニックなモテトの様式で表現している。テキストに関しては、導入部と終曲の合唱を除いて、すべて福音書の言葉に忠実に従っている。自由な宗教詩を挿入したり聖書の言葉を変更・省略したりというようなことを、シュッツは受難曲においては一切していない。最も厳粛な性格を持つ受難曲においては、ドレスデンの教会規定においてもア・カペッラと定められていた。

2重合唱で書かれシュッツが自ら「白鳥の歌」と呼んだ《詩篇第119番》(swv482,1666-68以降)と第100番 SWV493(1662頃初演?1671 改訂)および《ドイツ語によるマニフィカト》SWV494(1669頃初稿:SWV494a,1671改訂)には80歳を過ぎた高齢の音楽家の作品とは信じ難若々しい生命力が横溢している。1671年シュッツは詩篇第119の作曲をほぼ5年かけて完成し、詩篇第100と《ドイツ語マニフィカト》と共に手稿のパート譜と、印刷されたタイトルページと索引を付けてゲオルク2世へ献呈した。索引には、詩篇第119番、同100番およびマニフィカトの13曲夫々に旋法番号が付けられているが、シュッツはドリア旋法から始まる従来の番号ではなく、イオニア旋法を第1旋法とする、ベルンハルトの『大作曲法教程』と同じ旋法番号をここでは用いている。その後230年間演奏されることもなく、1900年グーベン(現ポーランド)で発見され、現在はドレスデン州立図書館が所蔵している。1930年に、詩篇第119の欠けていたオルガンパートが発見されたが、第2合唱のソプラノとテノールは冒頭部分が現在も不明のままである。

1669年シュッツ84歳の誕生日に、ヨハン・ゲオルク2世は「恩賜の」金杯を贈った。この前後を期にシュッツはヴァイセンフェルスの家を手放して、宮廷の近くに(ドレスデン,モーリッツ通り10番地)部屋を借り、没する迄そこで暮らした。

70年代に入ると、シュッツは自分の死への備えにかかった。45年前妻のマグダレーナを埋葬した聖母教会の家族墓地に自身の墓を造り、弟子で詩人でもあるC.C.デーデキントに記念の詩を書いて貰った。しかし実際にはこの墓ではなく、宮廷の規定に従って新たに造られた新聖母教会の地下の納骨堂に葬られた。旧い教会は、当時の選帝侯フリードリヒ1世がカトリックであったのにも拘わらず、ゲオルク・ベーアの設計でバロック様式のプロテスタント・ルター派の大教会を建造した時に、取り壊された。ドレスデンのシンボルである新聖母教会は、第2次世界大戦で全壊の憂き目に遇い、長い間瓦礫の山と化していたが、13年間の年月をかけて世界各国の支援によって2005年に再興された。シュッツと設計者のベーアは、新ドレスデン聖母教会の被葬者の筆頭ともいうべき存在である。

マッテゾンの『凱旋門の基礎』(1670)によれば、シュッツは自分の葬式のために《白鳥の歌》で取り上げた長大な詩篇第119番の54 節『汝の律法(おきて)はわが旅の家にてわが歌となれり』をパレストリーナ様式の5声部のモテトに作曲するよう、ハンブルクにいた愛弟子のべルンハルトに依頼した。シュッツは手許に届いたモテトに満足して、「依頼した曲は非常に気に入った。私が手直しする箇所は全くない」と礼状に書き送った。ベルンハルトが作曲した曲は、葬儀に際してシュッツが作曲した他の3曲と共に演奏されたと伝えられているが、肝心の楽譜は行方不明である。いずれにせよこの詩篇の言葉をシュッツは自分の人生のモットーとして葬儀の題辞として決めていたことは確かである。  1672年10月6日午後4時に、シュッツは息を引き取った。葬儀は11月17日に執り行われた。弟子達をはじめ、宮廷や各界の代表者ら多数の人の列が聖母教会へと続いた。司式者のマルティン・ガイヤー牧師は、弔辞の中で、半年前にシュッツから聞いていた自伝─1651年引退の要請書に添えてゲオルク1世に提出した略伝とほぼ同じもの─を、三十年戦争の只中で宮廷礼拝堂楽長としての苦難との闘いを切々と読み上げた。前述のベルンハルトのモテトと3曲の故人の作品が、宮廷楽団指導者デーデキントの指揮によって歌われた。その墓碑の銘には、「ハインリッヒ・シュツツ すぐれた音楽家にして選帝侯楽長 1672年」とラテン語によって刻まれている。

(V) 再評価と受容

現存するシュッツの作品は、1760年のプロイセン戦争によるドレスデン皇太子宮の炎上、両大戦などで焼失したものが多いとされている。ほぼ500曲余りを数えるその大半は宗教曲であり、世俗曲は殆どなく、器楽曲も現存しない。ヴェネツィアで作曲家兼主席オルガニストであったG.ガブリエーリの許で学び、M.プレトリウスやS.シャイトとともに、新しく据え付 けられたオルガンの審査に度々遠くまで出向いているが、1曲のオルガン曲さえも残されていない。

彼の作品の大多数はドイツ語の歌詞を用いており、ラテン語による作品は、《カンツィオネス・サクレ》と《シンフォニエ・サクレ》第1部のほか若干あるが、イタリア語は《マドリガーレ集 作品1》のみである。ゲオルギアデスが『音楽と言語』(1954)で論証しているように、ラテン語やイタリア語にはない、強勢と意味との密接な関係から生まれるドイツ語特有の持ち味はまた、シュッツの音楽の特徴でもある。シュッツの音楽は、礼拝の言葉や音楽に極力ドイツ語を用いようと努めたルターの信念を、ルター訳の歌詞を用いた宗教音楽によってさらに推し進め実現したものであるとも言える。初期の曲集では、自由祈祷詩や旧約聖書の聖句、とりわけ詩篇や雅歌などの主観的な解釈を引き出せるテクストが大半を占めているのに対して、後期の曲集になると、主観的な扱いをほとんど許さない新約聖書のテクストが目立って増える。通例シュッツは聖書の聖句をそのまま用いたが、一部に入れ替えや削除を行ったり、自身の言葉を付け加えることもあり、教訓的な話を題材とするテクストでは、対話の部分のみを用いたドラマティックなディアローグ作品を書いている。 ドイツのプロテスタント地域では、シュッツは生涯を通じていずれの作曲家も及ばない高い名声を得ていた。シュッツと同時代の代表詩人M.オーピッツは、シュッツを「われわれの時代のオルウェウス」と讃えている。没後、1690年に入ると、W.C.プリンツは、「中部ドイツおける最高の音楽家である」と回想している。ヴァルター、マッテゾン、ゲルバーの音楽辞典の項目においても彼の名前は忘れられてはいない。しかし生前は《復活オラトリオ》や三大受難曲はしばしば上演されたが、《ベッカー詩篇集》がドレスデンとその界隈の教会で1800年頃まで使われてはいたものの、彼の作品は、やがて忘れ去られていった。

近代に入ってシュッツへの関心が高まったきっかけは、周知のようにC.v.ヴィンターフェルトがG.ガブリエーリに関する研究書(1834)の中でシュッツを評価したことによる。1864年、ウィーンのジング・アカデミーを指揮して《シンフオニエ・サクレ 第3部》の<サウル、サウル、何故わたしを迫害するのか>を演奏したのは、ヴェネツィア楽派の複合唱様式や16-17世紀のモテトに強い関心を持ち続けたブラームスであった。Ph. シュピッタがシュッツの生誕300年に当たる1885年に作品全集を出版したことは、シュッツの再評価の真の基礎となる。シュピッタは、自らの『音楽史論文集』(ベルリン1894)に、「ハインリッヒ・シュッツの生涯と作品」を掲載した。1920年代からドイツの若い世代による「合唱運動」が起こり、その流れの中でシュッツの音楽も広い層に知れ渡るようになった。モーザーの『ハインリッヒ・シュッツ : 生涯と作品』(1936, 2/1954)も出版された。

1955年以来、国際ハインリッヒ・シュッツ協会編の第2の全集(新全集 [NSA])(ベーレンライター, カッセル)が、1971年から第3の全集(シュトゥットガルト版 [SSA])(ヘンセラー,シ ュトゥットガルト)が始まった。新全集では、第1巻の《イエス・キリスト降誕の物語》(1955)が2017年改訂版と差し替えられ、第5巻の《宗教合唱曲集》(1965)も同じく改訂版(2003)が出されている。280間年近くもグーベン(現ポーランド)の教会で沈黙し続けていたシュッツの「辞世の歌」を、ドレスデン州立音楽図書館長のW.シュトイデ(1931-2006)は、タイトルページに「白鳥の歌」と明記し、欠けている部分は自分で補って、新全集第39巻として1984年に初めて出版した。シュトゥットガルト版は、4冊刊行したあと、ドレスデン音楽大学内に新設された「シュッツ・アルヒーフ」と提携して、K.キュスター編集の《シンフォニエ・サクレ 第2部》の新版第11巻(2012)、U.ヴォルフの《カンツィオーネス・サクレ 》の新版第5巻(2013)、 M.ハイネマン編集の《宗教合唱曲集》の新版第14巻(2016)、W.ブライク編集の《白鳥の歌》の新版第18巻(2017) 他2冊を、既に出版している。より正確さを求める研究者たちの厳格な態度と熱意に加えて、いわゆる古楽の楽譜の校訂が如何に困難であるかを、これらの経緯が連綿と伝えている。

シュッツの作品集には、外交辞令的な序文の他に第2の序文や後書きあるいはパート譜の冒頭に必ず、実際の演奏の指示、作品が持つ意味、後進の作曲家が進むべき道への助言、などのかなり長い詳細な文書が付いている。《ダビデの詩篇曲集では》通奏低音用のパート譜に各音群の舞台上の配置などが7項目の指示を与えているし、《カンツィオーネス・サクレ》では、声域の選択を演奏者に委ね、《小教会コンツェルト》では、第1部、第2部の献呈者へ、戦時中の全く希望のない音楽家の心境を、夫々書簡の形で綴っている。《クリスマス・オラトリオ》ではタイトルページと福音史家の朗唱部分のみを印刷した理由を説明し、《白鳥の歌》のマニフィカトの最後では、新しく改築された礼拝堂における楽団奏者の配置を図って助言を与えている。これらの文書は、現世に到っても演奏者、受容者にとってかけがえのない作曲者からのメッセージとなっている。

1990年のドイツ東西再統一で諸条件が整ってきて以来、未だ資料に関して多くの問題を抱えているとはいえ、17世紀の偉大な音楽家してのシュッツの評価は今や揺るぎないものとなった。毎年開催される国際ハインリッヒ・シュッツ協会主催のシュッツ・フェスティヴァルの水準の高さ、規模の豊かさが、このことを如実に物語っている。「シュッツの音楽の中にある、天のきわみから、地の底から語りかけてくるもの。それは、時を超え、ところを超えて、人のこころを捕らえて放しません。」(服部幸三: 「シュッツ合唱団の全曲演奏最終回のプログラム『満願の捧げ物』によせて」 2001年10月1日)。何事も地球全体の規模で考えなければならなくなった現在、私たちのまわりを取り巻く「出口なし」の閉塞感を払うためにも、私たちにはシュッツの音楽が与えられていることを念じ、平和な共生の世界秩序 (加藤信朗) を求めてすすんでゆきたいと願うのである。